「墓相」入門

「先祖の祭祀と家庭運」より
 松崎整道先生講話「お墓の話」


先祖の祭祀と家庭運
竹谷聰進著
(株)徳風會・祭祀研究所出版
定価二千百円(税込)

「墓相」入門
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お墓の話 1

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 故松崎師が昭和十年一月五日に京都で講演されました大意は次の通りです。
(備考。本講演は老師の各地の講演と同じです。また各地で「お墓と家運」と言う題名で発行された本の内容と同じです。京都では老師に「お墓の話」の名で許可を得ました。)

松崎整道先生講話

お墓の話

佐野熊翁速記

「家の根」

 私はある動機から多年全国に渡って、お墓と家の研究を致しました。それを統計的に、学問的に、組織的に、また信仰的に調査研究致しました。その結果墓は家の根でありまた相続のものであると言う結論に到達致しました。そこで子孫が長く続いて繁昌する事を理想とするならば、家の根となり本となり相統のものである墓を祀らねば、その理想を貫徹する事が出来ないのでございます。しからばその家の根となり本となり相続の墓とは、いかなるものであるかと言うことが次に起こる問題でございます。これは親の募を子が建てる事、すなわち言い換えれば親の墓を子が建て、子の墓を孫が建て、孫の墓は曾孫が建てると言う様に代々順々に親の墓を子が建てる、これが家の根であり本である相続の墓であるのであります。

「氏寺」

 我が国で一般国民、在家の方一同が石碑石塔に法号を彫り付けて墓を建てたのは、いつの頃から始まったのであるかと申しますと、これは極めて近世の事で徳川の世となって檀那寺、檀家と言う関係が起こって以来の事であります。寺は仏教渡来以来千三百年、沢山に建てられましたが、それは今日の檀那寺、檀家関係のものではなかつたのでございます。いにしえの墓は氏寺、もしくは祈祷(きとう)寺と言うものでありました。氏神と言う事は皆さんご承知の通り、今日は氏神のお祭だと言う事を言つておりますが、氏寺と言う事はご承知ない方が多い。奈良の大仏のある東大寺は皇室の氏寺で、隣りの興福寺は藤原氏の氏寺であったと言う様に氏寺が沢山んあった。また祈祷寺は比叡山の延暦寺とか、京都の東寺とか紀州の高野山とか言うのは祈祷寺に属するもので、国家鎮護の祈祷をする寺であります。しかるに徳川幕府となりまして外教、すなわちキリシタン、今の耶蘇教(キリスト教)を禁じましたために、そのキリシタン信者でないと言う事を証拠立てますには仏教の信者であると言わねばなりません。すなわち寺院の信者もしくは檀家と言う事でなけれぱ証明ができなかった。そこで従来の意味は違っておっても建てられた氏寺や祈祷寺に駆け込んで、その檀家とか信者とかにしてもらった。もし左様な寺院の無かった所では、住んでいる所の村民、町民が集まって檀那寺を造った。これが今日の檀那寺、檀家寺である。それ以来今日皆さんご承知の通りの戒名を付けた墓が建てられた。それ以前千年にもなるお墓は、これはある特種の人によって建てられたもので、今日では考占学の領分に属し、ただ学間的に時を知る一つの参考にはなるが、家運や家庭に何の関係もない墓でありますから省きまして、皆さんの家庭家運に直接関係のあるお墓の話を申し上げます。
 前に申し上げた通り、子孫が長く続いて繁昌する事は、誰方もの理想でなけれぱならぬと信じます。その理想を貫徹するのには、家の根となり本となる相続の墓を建てなけれぱならぬ。その墓と言うのはいかなるものかと言うと、親の墓を子が建て、子の墓を孫が建てると言う様に、代々順々に建てる墓を言うのであります。三百年来檀那寺・檀家と言う関係が起こって以来今日まで、各家庭に大なり小なり墓を持たないお方はない。しかしながら今私が申した様に、家の根となり本となる相続の墓を持った家がどれだけあろうか。絶対に無いとは申しませぬが極めて稀で、暁の星を見る様です。家の根を持たず、相続の墓を持っていないと、その家はどう言う風に現れて来るかと言うと、何かその所に欠けた所が起こって来るのです。しからば親の墓を子が建てさえすればいかなるものを建てて良いかと言うお考えが皆さんの胸に浮かんで来る。

「墓相」

 すべて宇宙森羅万象、形あるものには、相のないものはない。相と言うことは形と言う事で、家には家の形、家相あり、人には人の形、人相あるごとく、墓には慕の形がある。従って墓相と言う言葉が出て来るのである。形のあるものを造るならば悪い相を避け、善い相すなわち吉相とか福相とかの墓を建てるのが当然となって来る。親の墓を子が建てさえすれば良いと言うのではない。建てるについても良い墓を建てなければならぬ。そこで良い墓と悪い墓とを一通りお話致します。

「墓石」

 私が多年研究した所から申しますと、戒名を書く所の棹石は何を意味し、またいかなる形を現しているかと言うと、これは寿命の長短を現しております。それから子孫の有る無いと言う事を良く現している。次に台石は二段となってその上段の台石は家業、事業の安泰を得るかと言うことを現している。下段の台石はその家に伴う所の財産の維持が出来るか出来ないかと言う事を現している。およそ人の家として子孫の有無、家業事業の不安泰、安泰、財産の維持の出来る・出来ないなど、これらの一つを欠いてもその家は安全な家と言う事は出来ないと思う。相続が欠けてはいけない。事業家業が安泰しないでぐらついていてはいけない。財産も不如意ではいけない。家を維持出来る程度の財産はなければならぬ。墓としてはまずこれらの各部が形良く、順序良く建てられなけれぱならないのである。ところが三百年以来、少なくとも皆さんの先祖が戒名を付ける墓を建てる事を知って以来、至る所に墓はございますが、今私が申し上げたような完全な墓はどれだけあるかと見ますと誠に少ないのでございます。ここに話の順序上悪い方の墓のことをお話し致します。

「悪墓」

 明治になりましてから都会が特殊の発達を遂げ都会の人口が急に増加致しました。従って都会では広い墓地を取ることが容易でなくなり、また一方土葬を許さない所もできました。火葬になった結果死骸の始末が良くなり、広い墓地でなくてもカロートでも造れぱ十人、二十人は納まるからと言うのでカロートを造ることが流行して来ました。それから一人々々の墓を建てる事とは場所が許さないので先祖代々之墓とか、何々家累代之墓とか、何家之墓と言う様にするが良かろうと言うので、場所が得られなくて焼いて仕末が良いので、誰が発明したともなくこんな墓が都会ばかりでなく、出舎まで流行して参りました。この墓は良い墓か悪い墓かと言うと最悪の墓と申して差し支えない。それは子孫のない墓であります。今日は都会の風が段々に田舎にまで及んで行って、昔からあった墓は野暮な様に考えて、この頃では古い古碑を穴に埋めて先祖代々之墓にするのが良いと考えて至る所に、そう言う墓が出来ましたのは真に嘆かわしい事であります。
 この様な墓を子孫のない墓と申しましたが、今例を挙げて申して見ましょう。東京には青山墓地と申しまして、七万坪の地積を有っておる五大墓地の一つがあります。この墓地が出来てから昨年で五十年になりますが、その五十年間にここに墓地を持ちました人の数が一万八千何百と言う大勢になっております、それらの人々の家が昨年末どれだけ残っているかと言う事を取り調べますと、わずかに三分の一に足らない六千しか残っておりませぬ。残りの三分の二は無縁同様祀る人もなく訪れる人もないありさまであります。その中には高位高官の人の墓もあり富豪の人の墓もありますが、五十年の間に一万八千の家は六千になっております。また大阪で大きい墓地と申しますれば天王寺の墓地とか阿倍野の墓地でありまして阿倍野は殊に大規模で、大阪市が経営しております。この所を開いてから来年で三十年になります。この三十年間にこの所に墓を持ちました人の数が一万六千八百であります。その家が今日どれだけ御参りも出来、その墓地の掃除料を納めているかと言うと、本年八月の調査によりますと、東京の青山墓地よりも率が悪く、わずか四千五百しかございません。三十年の間に一万六千八百が四千五百になって、その他は無縁同様であります。これらの中には大阪市を背負って立つ様なお方も沢山有るのです。また一代に名を成した人の墓もあるが、それが訪れる人もないと言う状態です。
 これは墓についての事実をお話したのでありますが、さらに私が多年、家と墓との関係について調べた統計の結果から言えば、三十年はわずかです、先祖代々之墓、累代之墓と言う様な軽便的の墓で、三十年安定している家はまず少のうございます。今京都市に百軒まで入る網をパッと掛けてその百軒中、三十年以前から変わらずに住んでいる家があるかと調べて見ますると。町によっては今日一軒もないのがあります。さらに今度は少し大きな千軒までも入る大風呂敷を掛け調べて見ますると、千軒中には三十年前からの家が五軒か十軒あまりしか残っておりませぬ。これをもって見まするとわずか三十年でありますが、この三十年の間安定して住んでいる人がはなはだ少ないと言う事になります、これは表面的解釈で、何分都会は生存競争が激しいから長く続く家が少ないのだと世間では話しております。私の考えではなるほど生存競争の激しい事実も一つあるにはあるが、かく無縁になってしまうのは墓が悪いのだ。後のいらない墓を建てているからだと申し上げます。
 さらに世間には手回し良くて、自分の墓を自分の存命申に建てる人がある。もし自分の生きている間に白分の墓を建てた人があったらその家を調べてごらんなさい。必ず次のような事実があります。すなわちそれまでは世間から褒められる様な良い息子、賢い子供が病人になって床に就いてしまう。あるいは放蕩(ほうとう)をし出す。不良生となるのです。とにかく自分の生きている間に自分の墓を建てれぱその子は溝足なものとならず、その家は満足に行かぬと言う事を大きな声で申し上げて間違いはないと信じます。ただし夫婦の一方がなくなった時建てたのは、自分の生きている間に建てた墓にはならぬのです。
 白分の墓を白分で建ててすらもその子供はヤクザになるか病人になるのであるに、いわんや子孫幾代もあるべきものを先祖代々、何家之墓で片付けてしまうのは、子孫のいらない墓に該当するのです。これらの事は寺に行って墓と実際の家の状態とを対照してご覧になりますれば、少しも間違った話でない事をご了解が出来るのであります。
 それから俗名の墓は仏法の言葉で申せば成仏の出来ない人の墓と申しております。神道であろうとキリスト教であろうと何でありましても、俗名であったならばその家三代にして必ず血縁は絶えます。これは理屈でない実際論である。俗名の墓を数万、数十万と挙げて対照すれば良く分かるので、私は統計をもって申し上げるのである。また戒名法名であっても一本の石碑にたくさん親も子も兄弟も孫も書かれたのは、それはその仏を祀ったことに当たらない。申さば石の過去帳であります。そんな家は長く統いておりませぬ。長く続いておりましたらそれは多分養子相続か何かの接木の家と申すもので血統は続いておりませぬ。死んだ人があるとそれを書き込む彫り込むと言う式で、前の方を明けて置いたのがありますが、その石碑に法名が一杯にならない前にその家は潰れてしまいます。墓地が狭いから過去帳式にするのは余儀ないもののように考えられますがそれは考えが足らぬのだ。墓と首うものをただ骨を埋める倉の様に考えたり、ここを先祖の家と言う様に考えるから間違って来る。もっと広く考えれば墓は家の根ですから、段々広がって行かなければならぬのでありまして、狭い所に窮屈な思いで小さくなっている様な、家の永続出来ない墓を初めからお作りにならぬ様に願いたい。私は京都でも幾年来たくさんの墓を拝見し、また皆さんからご相談を受けましたが、識に申すもお気の毒な次第ですが墓所が狭いのです。もしこれを考えればいくらでも回転の道があるのです。この回転の道と申しましても、誤解せられてはいけない。墓の為に寺を替えるかと言うように取られてはいけませぬ。一体これはお寺さんも心配しなけれぱならない問題で、墓地の狭いのは何とか回転の道がありますから後にお話する事と致します。とにかく場所が狭いから先祖代々之墓、何家之墓、あるいは一本の石碑に親から係までペタペタ並べる事はその家の繁昌も、子孫の永続も出来ない事になります。
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先祖の祭祀と家庭運
竹谷聰進著
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お墓の話 2

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「吉墓」

 次に良い形についてお話し致します。一本の石碑には夫婦の戒名を書くぺきもので二つ三つ、あるいはそれ以も書いたのがありますが、これは石の過去帳に過ぎません。夫婦なれぱ、右に夫、左に妻の戒名を併記するのがよろしい。もし先妻が死亡して後妻をもらった時には次のごとくする。すなわち先妻の子が相続人として墓を建てる時は、父の戒名と先妻の戒名とを併記し後妻の墓は別に建てる。[後妻の子が相続人として墓を建てる時は、右側に父の戒名、真中]に先妻、左側に後妻(白分の実母)の戒名を書く。すなわちこの場合は一つの石碑に三つの戒名を書く事となる。碑の正面には戒名を書き向かって右横には死亡の年月日、父何某、母何某享年何歳などと記し、向かって左横には何年何月建立何某と記す。ただし墓を建てる人が成年に達していなけれぱ、その人の姓のみを記し名は書かぬ、夫が妻の碑を建てる時は観音像を浮き彫りにしたのを立てるのがよろしい。その位置は逆位である事もちろんである。その後夫が死亡した時はその子が親夫婦の墓を建てるのである。
 碑の大きさ寸法を申しますと、石碑は必ず先祖より大きいものを建てるのは良くない。いかなる家でも長い間にはくたびれる事や疲れる事がある。くたびれたなら休めばまた勢いが出て来る。家が衰えた時代に親が死にましても、楽に建てられる様な質素な墓がよろしいのです。大体の大きさを申しますと次の様になります。
*竿石 正面の幅は六七寸乃至八寸、最大限度が一尺までである。高さは前幅の二倍四分乃至二倍五分、奥行は前幅より一割少ない程度にします。
*台石 上段の台石の高さは竿石の前幅と同じで、前幅は一尺三寸乃至一尺五六寸、奥行は前幅より一割少ない。下段の台石の幅は一尺八九寸乃至二尺二三寸、高さは上段の台石の高さの五割増とし奥行もその程度でよろしい。
 これらの大きさは建てる人の任意でありますが、干万長者でも前幅一尺以上の墓を建てては大き過ぎます。この石碑に書きます戒名は、必ずまじめな楷書でなければなりません。草書や行書や隷書などを書いた墓の家は衰えますから、まじめな楷書で書く事が肝要です。

「墓形」

 墓の形は千差万別で一々こう言うのが良いと言って挙げる事は煩に堪えませぬから、二、三を申し上げます。自然石をもって墓を建てればその家は絶家する。台石は上段下段と二段になっているのが吉相の墓であります。三段、四段、五段と言うのがありますが、それはことごとくよろしくない。また竿石と中段の台石の間にお膳の様な猫足の墓は家運不安定の墓であります。不安定と言う事はどういう事であるかと言うと。、男の子がたくさんあっても相続すぺき長男に相続させられないで、二男、三男が相続する。あるいは男の子があっても、それに相続させる事が出来ない女の子に養子をもらう。あるいは沢山子があっても一人も相続さす者がなくて養子をもらって相続させると言う事になる。もし相続問題が起こらないとすれば家業が安定しませぬ。十年の間に三度も四度も家業を替える事がある。また相続と家業に問題がなければ財産が問題となる。沢山あった財産がいつの間にか赤字で借銭になっていると言う有様になる。猫足の墓をお持ちになって十年でそう言う事が現れたり、あるいは十五年、二十年で表れて来る事もありまして、あまり遠い幾代の後までは持ちませぬ。

「石材」

 石碑の石の色は黒いのを避ける事。黒い石は過去に悪い人間が出た家か、子孫に悪い人間を出します。青い石は病相ですから、その家に病人が絶えない事になります。なるぺく白い堅い石がよろしいです。小松石も理想です。

「墓地」

 それから、どう言う所に墓を建てたらよろしいかと申しまするに、墓は陰の極みでありますから、陽の日を受けなければその家は繁昌しません。陽の日と言うのは午前の日の当たる事で、方角から申しますれば東向きが良い。それから巽か南向きが良い。物陰ではよろしくない。湿地だの日陰だのに墓があるとその家は繁昌致しません。
 墓地に木を植える事は禁物であります。寺院墓地としての外郭に防火風致のために植えるのはよろしいが、各々墓地に木のあるのは感心しませぬ。どうも近来東京はもちろん、大阪でも墓を造ると石屋ばかりでは済まない。植木屋を連れて来て庭のつもりで墓を据えるがこれはいけない。隣の墓地との境界に小さい木を植えるのは不可とは申しませんが、成長して二尺以上の高さになります時は、掘り取って新たに小さい木に替えます。墓の仏を慰めるつもりで桜とか椿とかの花の咲く木を植えたり、また橙、柿などの果物のなる樹木を植える人もありますが、左様な家は必ず衰えて参ります。特に果物の木があると身体障害者が生まれます。

「例」

 先年名古屋の覚王山口泰寺で講演をした事がある。私の講演の前にある寺の住職が法話をしておられましたので、その話の済むまで待ってくれとの事でその住職のお話を聞いていました。
 その話の終わりにこんな事を言われました。「私の寺の檀家に自分の墓地ヘミカンの木を植えた人がある。数年の後その木が大きくなってもミカンがちっともならない。ならないものならいっそ切ってしまうと言いますと、近所の人が『まあ待ちなさい。ミカンがならないとて切ってしまっては、何にもならない。私とあなたでこんなお芝居をしてみたら実がなるかも知れない。あなたがオノを振り上げてミカンの木を切るまねをして、いつまで待っても実がならないなら今日限り木を切ってしまうと言うのです。そこで私がミカンの木の代理となって、来年からなりますから切らないで下さいと言うのです。きっと来年からなるか。きっとなります。もしならなければその時切り倒すぞと言うのです。』早速試しにこの芝居をしました所が、その翌年からミカンの本に実が沢山なりました。植物でも魂があるからむやみに切るものではない」と言う面白いお話でした。その住職の法話の済みました後に私の番となり講演を始めたのです。すなわちただいま面白い結構なお話がありました。しかしこれを聞かれた皆さんが誤解をせられてはいかぬ。墓地に木があるのはよろしくない。特に果実のなる木があると、身体障害者が生まれるものである。今のお話で皆さんが、墓にミカンの木を植えてもし実がならなかったなら芝居をすると良いと思うて、墓地のミカンの木を植えられる様な事があると、それは大変間違った事となって不幸な事が起こるから、その点を良く了解せられたいと申しました。すると前に話をせられた住職が真青な顔をして「先生果実の木が墓地にあると身体障害者が出来るとの事は真実ですか」と、私に向かって尋ねられました。私は墓相上の経験から決して間違いはないと答えますと、その住職はいかにも不思議だと言って「実はそのミカンの木に実がなり出しましてからその家に三人の子供が出来ましたが三人共皆身体障害者で唖や骨なし子が生まれました。実に恐ろしいものだ」と感心せられました。
 大阪の某禍富豪で父が亡くなったのでその埋葬した所へ桜の木を植えました。そして石碑は少し離れた所に建てられまして今日で約十五年にもなります。ところがその家の主人が七年前頃から精神病になって東京の某病院で療養しておられますが少しも良くなりません。ある動機からその家の墓を私が見る事になり、桜の木は良くないから切った方が良いと申しまして、その木を切りました ちょうどその切りましたその日に精神病になっていた主人が、何か急に世間が明るくなりた様に感じ、それから病気がすっかり良くなりました。偶然だと言うかも知れないが、木を切ったその日から良くなると言う事は何か木と病気との因縁があると思う。
 これは神戸の話であるが、谷某と言う人が外出すると頭がグラグラしてとても歩けないので、内にばかり引き込んでおった。私が墓地に木があると狂人になると言う話をしたのを聞かれて、私に見てくれとの事で見に行くと、その所の墓地に大きな樒(しきみ)の木が高く繁っておった。これは切らなければいけないと言い、遂に切り倒したところがその翌日から頭のグラグラが治ってしまった。
 それから石燈籠もむしろない方が良いと思います。墓地に草の生えない様にと墓地全部を石で畳んだり、コンクリートで塗りつぶしたのも見受けますが、これもいけません。墓地は山の清浄なる土を置きまして、草が生えたら草を抜き常に清潔に帰除を怠らぬのが、墓をお守りをする者の務めであります。墓地を石で畳んだり、コンクリートで塗って草の生えない様にすれば、その家に草が生える様になります。
 墓地を大変高くするとその家ほ栄えませぬ。もし周囲の関係で土を盛らなければならぬとすれば、一尺までを程度と致します。一尺以下はよろしいが、一尺以上になると人の造った地面になり、富の本たる大地との縁が遠くなりますから、繁昌しない事になります。
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家運長久の秘訣
初代竹谷聰進著
(株)徳風會・祭祀研究所出版
定価四百二十円
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「墓相」入門
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お墓の話 3

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「納骨」

 また当時流行のカロートですが、これはよろしくないと言う事を前にも申して置きましたが、このカロートが一杯になって、新たに造らなけれぱならないと書う例がほとんどありませぬ。そのカロートが一杯にならない前にその家は終わっております。やはり人は亡くなったら土に帰るべきものでありますから火葬にしても良いから遺骨は木の箱に入れて三尺の地下に埋葬するのが一番理想的であります。

「奇形」

 それからお墓を沢山調べておりますと、石碑の形が色々変っているのを見受けます。三角の尖ったものとか、将籔の駒形のもの、あるいは丸い太鼓のものなどがあります。こんな変形、奇形の墓は絶家します。また石碑に色々は事を書いたのがあります。歌を書いたり詩を書いたり、あるいはお寺に祠堂金を納めたと言う様な事を書いたのがあります。これらもよろしくありません。金の事を書いた墓の家は負債が出来るものです。これで面白い話がある。
 先年大阪の寺町にある法華宗の寺でありますが、そのところで朝からお話をして三、四時間で終わりましたが、ただ話したばかりでは皆様にお分かりにくいだろうから墓を見て、この家は繁盛している、この家は病気で若死するとか、実地について申し上げましょうと言って、墓地に降りて、これはとうだ、ここはこうだと話して行く間に色んな墓がありました。正面に先祖代々之墓と書いて、後面には金五百円也何々と細かい字が一杯に書いてあるから、これは誰方の墓だと言ったら「私の墓です」と言う人がありました。この御影石はキラキラして読みにくいから、細かい字を私が読むよりあなたが読んで聞かせて下さいと申してそばで聞いておりますと「この墓を建てた記念として寺に五百円上げたが、この金は五十年間は使ってくれるな、これを五十年利殖すると八干円になる、その時半分寺にくれて残りの四千円をまた五十年便わずに置く。そうすると三万なんぼになる。その時半分の一万五千円をくれて残りをまた五十年使わずに置く、かくすると何百年後には何千何百万円となる」と言う事です。私はそれを聞いてあなたは偉いなあ、あなたのソロバンではこの墓一本で世界中の金を集める事になる。まあそんなもんです、とその人が答えました。あなたは大変偉い、しかしあなたは大事な事を忘れている。ソロバンの上ではそうなるがそれはあなたの理想通りに都合良く行った時の話だ。一体その金を誰が殖やしてくれるか、金庫の中に入れて置いては殖えないから預けるとか何とかして元金を働かさなければならぬが、五百円が幾数十年また何百年と言うその間、確実に維持されて殖やすと言う事を誰がしてくれるか。一つの国と言うものを考えても、ようやく日本だけが皇統連綿として二千何百年続いているが、外の国々では相当続いた国も何十年何百年の内に滅びている。最近の経験によれぱ、この銀行が大丈夫なりとして金を預けて今日ただ今は安心の出来る大銀行であるかも知れませぬが、年数のたって十年二十年の間に変化しているのではないか。日本に銀行が出来て五十年程であるが,この間にいくつ銀行が損れたか知れぬ。華族の資本によって建てられた大銀行でも、先年漬れて名だけ残っていると言う有様だ。どこに確実な銀行があると言える。人に貸せぼ倒される。しまって置けば殖えない。どうしてあなたの計算した様に理想通りに殖えるか、そこにあなたの誤算がある。私はあなたに苦言を呈する、あなたがここに寄付した金が最初五十年で八千何百円、あなたの年齢は六十にもなっつている。十年前にこの墓が建ったものとしてもあなたが百歳まで生きなければこの金は見られない。あなたは百二十まで生きるか分からぬが、それまでにあなたが借金で終わらない様にお気を付けなさいと言った。
 引き続き希望者が多くてその日で中止するのも本意でないので、明日半日だけ皆様のご希望にそう事にすると言って、その翌日もその墓地を見ました。皆済んでしまってから昨日の五百円の方が残っておりますので、何か御用かと聞きますと「もう一度私の墓地へ来て頂きたい。早くから来て待っておったがあまりきまりが悪いから控えておりました。皆がいなくなったからお聞き申したい」と言ってその人の墓の前へ行きますと「先生のご指導通り墓を直しますからどうか教えて頂きたい。誠にお恥ずかしい次第であるが、私は鉄の卸売りをしており、以前は三文の借金もなかっつたのに、この墓を建ててから十年になり、目下銀行に○○万円の借金が出来ました。そしてその利子の支払にも困る様な有様で、昨日のお話を伺って後悔しております。この際お墓を直したいと思いますから、なにとぞご指導を願う」との事でありました。墓にお金の事などを書くとその家は潰れるか、負債が出来て来るものであります。

「同居墓」

 一つの墓地内に本家と分家とか、または他人とか、いずれにしても二軒の家の墓がありますと、その両家盛衰交互に至って、片方が頭を上げると片方は衰える。これを繰り返して遂には共潰れになる。もし三軒以上の家の墓がありますと争いが絶えませぬ。そうして親子でも兄弟でも口を利かない様になります。
 自分の墓地内へ他人の墓を建てると、たとえ親切でした事でも、その家に厄介が絶えない事になる。よく田舎から都会に出た人がその所でお嫁さんをもらい、出来た子が死んだとか言う場合に、田舎の寺へ遺骨を持って行くのは遠いから嫁さんの里の墓地に葬って置く事がある。その墓に埋められた家が厄介の絶えない事になる。分家が本家に墓を置けば、その分家はいつまでも独立が出来なくて、いくら本家から貢いでもらつても失敗すると言う有様で、どうしても独立出来ない原因が家に起こって来る。家が別なれば墓もまた別の所に造らなければならぬ。
 墓一本のために長年お子さんが無かった家にお子さんが出来た例、長年病人が床に就いておった者が治った例。大変不如意であった家が如意となって都合良くなった例も、沢山持っております。その内一つ二つ例を挙げてお話致しましょう。
 この頃熱海の方へ行く途中、東海道の平塚と言う駅で汽車を降りて墓を見た事がある。その家の墓を見ている中に、あなたの墓地の中によその墓が一基ありますぞと申しますと「良く分かりますな」とその人が言いました。有れば分かるに決っていると私が申しますと、その人は「恐ろしいものですな」と言っておりました。このよその墓は何人だか知らんがあなたの墓地の中に置くとあなたの家に厄介が絶えないそ、過去帳を見せて下さいと言って、それを見ますと、それは女の墓で、蓮池貞芳信女とある。この仏はその家に長女として生まれて嫁に行って亡くなった。実家では自分の娘が死んでかわいそうだと言って、その家の墓地内に立派な墓を建てたものだと言う事が分かりました。どうもよそへ行った者の墓を自家の墓地内へ建てると、将来この家の娘が嫁に行っても出戻りして家の厄介になる事になる。たとえ自分の家に生まれたものでも、他家に行ったらよその人である。その人を供養してやるのは良いが、こうやって自分の墓地に置けばただ普通の厄介では済まない。娘が幾度お嫁に行っても出戻りすると言う事になって気の参な事になると言った。その時主人が「ここにいるのが出戻り娘です」と七十三になるお婆さんを指しました。
 このお婆さんはこの家の長女でしたが、よそに嫁に行ってその先が潰れて、戻って来た。後にまた嫁に行ったが、その所もまた漬れて戻って来た。そして嫁入先の仏檀まで持って帰って、大変いばりちらし、召し使いの者まで酷使する、と言う有様で困っているのであると言う事でした。その家はこの婆さんの弟が相続しましたが亡くなりましたので、その妹に養子をもらったのが今の主人で、七十一歳になると申しました。こんな墓を置くと、娘さんが出戻りするの当たり前で、この婆さんが悪いのではない、悪因縁の犠牲となったのです。何とか墓の始末をしない内は治らない。しかのみならず、あなたの家はだいぶ穴が空いているぞと申しました。後に分かつた事ですが、相続人が親や妻や親族も知らない大変な借銭をこしらえていたと言う事である。そう言う事が墓に良く現れるのであります。
 墓は石でありませぬ。あなたがたの親であり先祖であり人であり仏である。それを世間一般に石とばかり考えているから誤った扱いをしている。
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お墓の話 4

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「功徳」

 先年関東の桐生で、墓を見てあげました人で古いお墓を沢山持っておられましたが、はなはだよろしくない墓相で、家運の衰微を現しておられました。それを直すと同時に古いお墓を整理した方がよろしいが、この整理をするには何か功徳を積まなければならぬと申しますと「何をしたら良いか」との質問があった。考えておきますと申してその家を出ました。帰り道に広い道路があってその中程の二十何間が未完成のままにしてあった。妙な事だと思って、送ってくれた人に聞いて見ると、その未完成の部分の土地を持っている人が、その土地を手放さないのでこの道路の前後が出来たけれども、この一部分が残っていると言う話だ。道路買収を担当した人が、持ち主に話す時に感情を害したとかでどうしても承知をしてくれないので、かれこれ四年もこうなっていると言う事である。その持主は何と言う人かと聞いて見た。その人は先程大きな功徳をしろと言った人だな、と言うとそうだそうだと言う話。それから宿に帰ってその人に来て頂いて、先ほど家還発展のため墓を直すに付いて何か功徳をしろと、言ったが今あなたに適当な功徳となる事を教えてあげよう。それは道路の話である、色々これまでの事情もあろうが、仏の言われる事と思って曲けて承諾したらどうだ。それは今帰り通に道路が前後出来ていて、中間の一部が出来ていない所がある。聞けばその土地はあなたの所有地たそうだ。道路の委員だか市の係だかと衝突して談判不調のまま四年にもなると言うが、これを水に流して今までの行き掛りを捨てて市に寄付が出来れば結構、もし色々のご都合で無償でいけなければ、せめて市で定める値段でこれを手放してはどうか。私が言うと思わないで先祖・仏さん・如来さんが言うと思って聞いてもらいたい。これは大変功徳になる事だ。釈迦の説かれた話の中にも八福田と申して八つの功徳を挙げた中に、道の無い所に道路を造って世人に便益を与える事を一つの功律に挙げられている。あなたの家はずいぶん色々な因縁が重なっておって容易な功徳では駄目だ。白殺する子供が出来る様な不幸な因縁があるのであるから、良く考えて見よと申しますと「さようですか、帰って家内と良く相談して見ましょう」と言って帰って、すぐまたやって来ました。「早速帰って相談しました結果、喜んで市に寄付します」と言うのです。五間幅で二十何間ですから百何十坪になり、坪十円にしても千五百円の土地である。それを寄付しますと言うから、それは結構だと言ってその事を翌日市の方に申し出た。市の方では待ち兼ねておった所でありますから、早速道路にしました。この功徳によって墓も整理が出来ました。
 翌春、私が参りました時、その人が宿に来て「先生ここで申し上げてもよろしいのだが家内中そろって先生に御礼を申し上げ、かつまた喜んで頂きたい。どうかお忙しい所でしょうが宅に寄ってくれ」との事でその家へ行きますと、家内中そろって出て来て、「昨年お目にかかるまでは私の家は段々悪くなりました。私の商売は織物に使う糊を高等工業学校の先生から教えて頂き、それを製造しておりました。しかし資本もなかったので、何千円か借金してちょうど九年になりますが、辛うじて利子を払って行くだけで、元金を返す事が出来なかったのです。それがあの地所を寄付しまして墓を整理し、その土地の左右の白分の地面に借金して家を造り貸家にしました。良い借り手があって家賃もキチキチと入りますし、また商売の方も繁昌して満一年にもならないのに、その間の利益で借金を奇麗に済ませてその上隣の屋敷をも買い求める事ができました。あの寄付のお話がありました時、実はあの地面は担保になって金を借りておりました。その担保を解くにも金の工面をしなければ登記も抹消して寄付する事が出来ないのでずいぶん苦心しましたが、先生のお話に従ってそう致しましたら、わずか一年の間に大変良くなりました。なお商売の方は明年三月まで注文が一つもなくても、今まで受け取った注文で追われる位であると」言って非常に喜んでいました。事実その話の通りで、その家は引き続いて発展しております。誠に結構な事であります。

「整理」

 墓を整理すると申しますと、よく今日は先祖代々として一本にする人が少なくない。これが良くない事は前にも申し上げたが、これと反対に十本も二十本もそれ以上もある家があり、そして墓の事を良くご存じでなくて、死んだ順に建てておられる家もある。埋葬して石碑を建てるにも位置なわち座があって、その座を外してめちゃくちゃに建てた家は、家内が和合しない。親子兄弟夫婦仲が悪い。墓の座に付いて申し上げると、大体墓地の右奥が最上位になり、その部に先祖供養の五輪の塔なり宝篋印塔を建て、塔より向かって左側に、親、兄と言う順に墓を並べる。親が子の墓を建てるとか、兄が妹の墓を建てると言う場合は、逆位に左から右へ行くのである。
 ここで墓地の整理に付いてお話致します。死者に対し一つ一つの墓を建てて行きますと、限りある墓地は直ちに一杯になります。日本のような狭い国では墓のために土地が無くなってしまうと、言う人もあるかも知れません。がそれは理屈で、日本小なりと言えども今だ墓のために米や麦を作る嚇所が無くなったと言う実際の例が無い。しかし限りある墓地に無限に墓を建でれぱいつかは一杯になって行く。墓地が墓で一杯になると、ちょうど木で申さば育ち切った様なもので、段々生まれる人間よりも死ぬ子供が多いと言う事になり、たまたま育てぱ家を相続しないで他郷へ出て行ってしまう。家を相続する人が他郷へ出て帰らない人がずいぶん少くない。それは色々の事情で、せっかく都会へ来て学問をして立派な人になった。これから村に帰うても仕方がないから学んだ学問で適当の地に行って身を立て、その所に生活する事になる。しかしこれは現時の事情にすぎない。さような人の墓を調べて見ると、その先祖の墓が荒れてしまっているか、あるいは一杯になってもはや墓を建てる余地が無いと言うのが実際である。墓地に余裕のある限りはせっかく他郷に出ていてもうまく行かないとか、種々の事情で国へ帰って来る事になる。墓を整理して余地が出来たために戻った例も沢山ある。
 子供が外国にある年限を限って留学した。ところが約束の年限が過ぎても帰って来ない。親御はもちろん、親族友達から帰朝を促しても帰らない。私がたまたま縁あってその家の墓を整理してあげました。すなわち一杯になっている墓地の碑を片付けますと、これまで十年二十年の間帰らなかった子供がスゥット帰って来た。墓に余地が出来て来ると、帰れと言わなくてもその子供が帰る。次のはお寺さんまで帰って来た例である。

「例」

 一、二年前の事ですが、上州に花輪と言う所があります。その所の○○寺と言う天台宗のお寺で講演をし、各家の古い碑を整理して一つの所へ集めてお祀りを致しました。その寺の総代をしている人の母親が、六年前から半身不随かで床に就いておりましたが、古い先祖の墓を片付けて墓地に余地が出来たら、その三日目に六年床におったお婆さんが立つ様になった。更に三日目には二丁程の山の上にある自分の家の墓に杖をついてお参りした。まるでうそのような事実がありました。か様な縁で一、二度その地へ参っておりましたところ、その隣村で弾宗のお寺で○○寺と言うのがあって、そのお寺は十五年前に火災により全焼して住職が焼死しました。さっそく仮小屋の本堂を建て、前住職の弟子が住職になりました。その和尚も七年前に変死して、以来住職がいなかったので、これではいけないと言うので、村の人が心掛けて積立金をして五万円になり、お寺を新築しほとんどでき上がりました。入れ物が出来たから住職を迎えなけれぱならぬと言うので、寺の歴史を調べますと、その寺は住職が亡くなると、その住職の子か弟子かが相続する事になっている事が分かりました。七年前に変死した住職には子供もなく弟子もなかったが、その先代住職には子があって、僧侶になっている事が分かったが、どこにいるか居所が分からない。色々調べると現在北梅道の小樽市の雇いをしていると言う事が分かった。そこで総二名と隣村の住職と三人ではるぱろ小樽まで迎えに行った。そして現在寺もほとんど落成したから帰って下さいと三日間口説いたが、どうして帰るとは言わない。いつまでも滞在しているわけにも行かないから、良く考えて下さいと言って戻って来た。この迎えに行った人が今だ帰り着かない前に「私は断固帰らないから外から住職を招へいしてくれ」と言う手紙が来ておりました。こんな事情でまだその寺に住職なく、まことに困っておられる話を私が聞きました。私はその時とにかくその寺へ、一度行って見ましょう、何とか良い方法があるかも知れぬと申して、そのお寺へ行きました。まだ新しい木の香がプンプンする造作中の寺を見、また境内から墓地を一巡した後、これは何でもない。あなたがたは普請より先にする事があったのだ。それをやれぱ住職の方が先に出て来たんだ。とにかくこの寺の墓の整理を急ぎなさい。そうするとどこからか住職が生まれて出て来る。それを反対にやったからいけないのだと申しました。この話をしてニカ月後に養蚕が片付いてから墓の整理をした。もちろん寺の住職の一杯になっていた墓地もその際整理して余地が出来た。この整理を始めてから三日目に、断固帰らないと言った小樽の僧侶がヒョッコリ帰って来た。村の人は和尚さん良くお帰り下さいましたと言うと、私は帰って来たのではない。先般三人連れでわざわざ小樽までお越し下され、その後もねんごろな手紙を頂きましても返事もしなかった。誠に不都合をしていましたから、そのお詫びかたがたごあいさつに出なければならぬと思って参りましたと言う話である。墓の整理にかかった日と、あいさつに行かねばならぬと言う心が出来た日とピッタリ合ったのである。そして新築の寺を見たり、庫裡の間取りなどに意見を述べたりして行かれましたが、間もなく小樽から手紙で、先頃お断りしたのだが皆さんのご好意に甘え寺に帰る事にします。しかし明年の三月までは役所の都合もありますから、三月末に辞めて帰りますと言って来られた。市役所でどれだけの待遇を受けるか、村人が五万円もかけて寺をこしらえてくれ、その住職になれば御前様の扱いを受けるなどの事が動機となって帰る事になったので、現在その寺の住職をしておられます。随分不思議なものであります。
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先祖の祀り方
お墓の建て方

三代目竹谷聰進著
(株)徳風會・祭祀研究所出版
定価二五七五円
(税込)

「墓相」入門
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お墓の話 5

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「無縁塔」

 かくのごとき色々の実例から見ましても墓は石ではない。皆さんの祖先であり、親であり人であり仏であると言う事が如実に現れている訳です。皆さん、墓を粗末にしたら親を粗末にする事になります。良く世間のお寺では無縁の石碑を寺の敷石にしたり、踏段にしたり、塀に塗り込んだりするのを見受けますが、これは大変な間違いです。その石碑の主はかっては地方のためになり、寺のためになった人です。その人が亡くなりましてその家が衰えたりしても、その墓だけはお掃除してお祀りするのが寺の義務であります。寺ではそんな事をする金が無いと申しますが、それをお祀りする寺は栄え、粗末にする寺は不幸が続きます。墓は石ではなく人であります。
 限りある墓地に段々墓が増えて来ますと、これを整理しなけれぱならぬ。その整理の一法として「先祖代々之墓」とか「何家之墓」と言う様な便利な墓が流行して来たのでありますが、これらは決してまねをしてはいけません。沢山の古い墓を持った人は、法をもって整理する事が出来ますので何も気にする事はありません。これに付いて詳しく申しましょう。  墓が一杯になったら墓を整理するか、第二の墓所を取るのです。すなわち整理がうまく出来ない時に第二の墓所を取るのです。何の障りもなく、また先祖も喜ばれる様に整理するには大きな功徳を積んで、その功徳をもって墓を整理しなければならぬ。仏法には色々功徳の道が沢山ある。沢山ある中でも、墓の整埋に付いては墓の功徳をもってかかるのが一番ふさわしい。それはどう言う事かと言うと、例えばお寺に無縁になっている石塔が大抵どこにもあるものである。その無縁になっている墓をお祀りする。すなわち祭壇を築いてその所へ移してお祀りする、その発願をするのである。この功徳によって動かせぱ銘々の墓を動かす事が出来る。この方法を採る以外には先祖が因縁によって出来た墓を子孫が動かす権利がないのである。もし祖父、親が生きておったとしたらどうか、狭くなった、娑婆塞ぎだ、どこかへ行ってしまえと言う事は出来ない、そこで無縁になった石塔をお祀りする。それを発願し、それを実行した功徳によって銘々の古い、石碑を無縁墓地に持って行きます。
 無縁塔を積む時注意する事は、その沢山の石碑、竿石を決してセメント付けにしてはいけない。ただ檀の上に据えるばかりで良い。大風や地震の時に倒れる恐れがあると言ってセメント付けにしたのを見受けますが、これは甚だよろしくない。ただしその石碑を据える檀はセメントを用いるも良く墓の台石を利用しても差し支えはありません。竣工しましたならばお寺さんに頼んで開眼供養を行い、その後年に一回とか二回とかお祀りをしなければならぬ。
 今年の四月土佐の○○町に参りました。この町は干戸程の大きな町ですが、海岸にあった多数の無縁の碑を邪魔になるからと言って山手の方に移転しました、その時乱暴にも石碑を組み合わせて菱形とか亀甲形とかの模様を表すように並べ、大き過ぎるものは削り、小さいものはセメントにて補い、山壁に積み重ねました。まったく仏を祀るのではなく物好きに組み合わせたにすぎません。こんな事をしてはきっと何か騒動が起こるぞと申しますと、その時既に起こっておった。すなわち昨隼の衆譲院議員の総選挙に不正な事をしたとかで町中の人が皆引っ張られて行って大騒動を来したと言う事でした。
 その町から四里程離れた所に○と言う町があります。その所では完全な無縁塔が出来まして大変都合良くなっているとの事です。一軒の床屋がこの美挙に反対して少しも手伝いをしなかったそうでしたが、その後間もなく床屋の息子が停車場の全庫から金を盗んで警察に引っ張られ、その床屋は町にいられなくなり夜逃げしたとの事です。  さて自分の家の墓が大変沢山あり、どの墓を残してどの墓を移転して良いかと言う事が問題になる、一体自分の家の墓が沢山あるとしても、これに香華を手向けてそれが届く仏と届かぬ仏とがある。百年も二百年も前の仏には届くものではない。届く仏はそんなに遠くないと言う事を申し上げる。呼ぺば返事をする仏がある。それを厚く祀る事である。呼べば返事をする仏と言うものは誰までかと言うとまず祖父母までで、年数から言えぱ五十年忌の済まない人である。これは呼べば返事をしてくれる仏であり。相続のとして残さなければならぬが、それ以上の墓は片づけられる。しかし片付けた跡に身代わりになる、供養になる塔を建てなければならぬ。ただ移し放しではいけない。すなわち五輪塔とか宝篋印塔とかを墓地の最上位に建てるのてある。
 私は可々私自ら発願して無縁の石碑を集めて祀っており、毎年三十乃至四十を下らない。その中沢山集めたものは四干本、五千本、少なく共三百、五百のお墓を集めて供養しております。無縁のお墓の整理されました檀家一同あるいは村一同には、不思議に生活難や失業難を訴える者がありません、お墓を整理せられる前までは失業者も多く、生活難を訴える者が多かったが、今は家庭の不和を叫ぶ者が無くなって来る。
 昨年二月泉州堺市へ参りましてお話致しました。浄土宗の某寺でしたが、お寺の手入れが行き届かず大分荒廃しておりました。堺と言う所は昔大閣さん時代には大変盛んな所であって、外国との交通貿易港となり、物産も酒とか河内木綿段通などがありました。明治になってからは産業は大阪に奪われ、港は神戸、大阪に移ってだいぶ衰微して参った様で、金回りも良くないと見えて寺の周囲の土塀などが傷んで、そこから顔を囲しているのを何かと恩って見ると、石塔でありました。その外に何百と言う石塔を穴に積み込んで塵介(ちりあくた)と共に打ち捨てられておりました。これを見ました私は大変驚きまして何とかしなければならぬと申しますと、「何分金仕事だから今日の堺では出来ない」と言う。ばかな事を言いなさんな、何でもないではないか。石と思うからそんな事になるのだが、これらの石塔の主は、今では不幸にして家が絶えて無縁になったのだが、昔はやはり寺のために感くした人、国のためにも、土地のためにも動いた人であった.。塀をこしらえるために塗り込められてたまったものでない。
 今日でも至る所にこんな事実はあるが、お寺さんが感知しないはずは無いと思うが、よく柱の下になった下水の土止めになったりするものがある。明治になってから古い石塔を穴に埋めたりまたは先祖代々の一つの墓にしてしまったりして、官民共に墓と言う事を忘れ、ただ墓標位に考えて粗末にし慣れた結果、日本に生まれて日本の国を忘れ、家に生まれ家の本を忘れた人間が沢山出て来た、もし生きている人間がこの寺に来て倒れていたとすれば、あなたは大騒ぎをするだろう。ここに人倒れがある、まだ息がある、医者を呼んで来るとか手当てをするとか決して放って置かないだろう、その時に医者を呼べば金が掛かる、他所へ運ぷには車賃がいる、と言う様な事を考える者がない。これらの沢山の無縁の碑を石と思えばこそこんなにして置かれるのだが、石でなく人であり仏であるのだから放って置ける訳のものではない。私がこの寺に来たのも緑があったのだから、私がこの寺の無縁さんを仕末する方法を執ると言いますと、それ出来れば結構ですと言われた。そこで私は大阪の徳風会に相談した。この徳風会と言うのは、先年来私が度々大阪へ参りましてお話をしておりました事が基となり、功徳積みのために出来た会であります。京都には清道会が出来ております。春秋二回のお地蔵流しや毎月一回の有縁無縁のお墓掃除をして常に功徳を積まれて来ました。ただ今では千五百の会員があります。この会にはかって無縁塔を建立する事にして、会員や有志の人々の寄付を仰ぎ、金が出来たので無縁さんを集めました。その数は千六百基、垣根だか林木だか分からない様な木を皆切って綺麗にし、塀を新しくこしらえ直してまったく見違える様な立派な墓地となりました。その結果はどうでありましょう。金がないから出来ないと言うので始めたのですが、何十間の耕土塀まで出来てなおかつ二千六百円金が余った。出来ないと言うのはやらないので、やって見れぱ必ず何とかなるものである。それからと言うものは失業を訴える者、生活難を苦にするものが一軒も無くなって来ました。こんな事実が現れたものですから、その町の寺も相次いでお墓の整理をやり出し、ちょうと今年の八月までに十八力寺整理出来ました。
 最近も東京青山の高徳寺と言う浄土宗のお寺に無縁の墓が沢山あり、やはり埋めたものもあるので、ぜひお配りをしなければならぬと言うので、檀家総代の森某が私の話を聞いて整理をしました。初めはお寺さんがうるさがっておりましたが、この人が市会議員などもしておった熱心な世話好きな人でありましたから、やる事になっていよいよ掛かったら石塔の数で八百基ありました。森と言う人が金が出来なければ自分一人でもやるつもりでしたのに、やり始めますとお寺に続々寄付が集まって来ました。一番最初にちっとも知らない人が来て「私はこれまで墓地を持っていない。やがては墓地がいるが大小は問わない、どうか隅の方でも良いから欲しい。無縁塔が出来るならこれを差し上げる」と言って干円寄付せられたのが始まりで、工事が終わるまでにそんな意味で金を納めた人が五、六人ありました。総額六、七千円も集まったので立派な無縁塔が出来てお祀りを致しました。ちょうど隣に麻布三連隊がありまして、寺の地面と連隊との間に道路が出来ました。そのために寺の地続きに六間幅の四、五十間の半端の土地が無償で寺にもらえる事になった。初め寺でも檀家でもうるさいと思われた事が訳なく出来上がり、墓の整理された所に不思議に余徳がわいて来るのです。私は金の寄った事を申すのではなくて、墓は石でない事を申すのです。無縁になったものは、あるいは生を抜いた物だとお寺さんで言われますが、一旦建てられた石碑は石でなく霊魂である。

「霊魂」

 もし生を抜いたとしたらその霊魂はどこへ行きますか。生を抜くと言う事は法にはあることはありますが、お気の毒だが今日本当に魂を入れたり、生を抜き得るカのある人がとれだけありますか。恐らく抜いたと言うても抜けていないのが沢山ありましょう。
 昔から老いて養う子なく、幼にして養う親なく、壮年で身寄り頼りの無い独り者を鰥寡孤独(かんかこどく)と申して、世の中の最不幸なるものとしている。けれどもこれらに対して十分ではないけれども、年寄りのためには養老院の設けがあり、狐児のためには孤児院の設備も出来ており壮年の者に対してはそれぞれ社会事業や職業紹介で世話する道がある。けれども死して仏となって子孫が絶え、無縁となって石塔まで粗末にされる様になっては不幸の極みである。そして生を抜かれたとしてもその霊魂はどこへ行き、誰がこれを供養してくれるか、祀る人もなくてこの字宙にさ迷うた霊はどう言う働きをするか。我々の子孫にしても不良者や道楽者が出来ると、その親達は世間に面口を失う次第ですが、それらの者でも世間に出て良い人に出会えぱ、たまには真人間になり立派な人になるものもありますが、多くはそうあつらえ通りには良く行かないで不逞(ふてい)の徒となり、不良の人となり、行く先は監獄と言う事になる。これと同様に霊魂のルンペンはやはり世の中に放浪して徳の欠けた人、徳を失うた人などに憑依して益々不徳をほしいままにする。たくさん金を持っていても情を知らぬ無慈悲な人につきまとって益々悪行を甚だしくさせて、遂にはその家をつぶすと言う事になる。これらの霊は誰かお祀りして上げなければ納まらない。
 世間の信心家、慈善家、学者や僧侶などが、祖先崇拝を唱道しているが、この人達に向かって先祖とは一体どの先祖を指すのか、親も先祖であり、祖父もまた先祖である。十代前二十代前であるかと問うて見ても、的確にこの人が先祖だと明確に返事できない。私は、もし両親が壮健でいたならば、この両親に苦労を掛けない事が先祖崇拝の骨子である言う事を叫びたい。またそう信じている。これから出発するとしっかりした先祖がつかめるのである。もし両親が没していたならばその両親と祖父母のこの四人の祥月命日と戒名を知っていて朝夕これに礼拝を怠らぬ様にするのである。これすなわち先祖崇拝である。
 私はどこの講演でも申す事でありますが、皆さんの中に父母・祖父母のこの四人の祥月命日と戒名を即座にお答えになる人が何人ありますか、恐らく十人に一人もない位でしょう。それは家へ帰って過去帳を見れば分かると言う方もあるだろうが、過去帳を見たり、お寺さんに行って聞いてみなけれぱ分からぬと言う様な事であったとすれば、それは世間に向かって祖先崇拝を唱道する資格がない。いかに信心家でもまた慈善家でもまた篤行家でもこれを欠いたら零であります。自分の身体をもらった親、その命日戒名をお忘れになっている様では失敗続きです。それで親・祖父・曾祖父と七代でも二十代でも推して行って捕んだ所が先祖であって、それらの人々をお祀りしなけれぱならぬ。

「年忌」

 墓を整理するにも両親と祖父母の墓だけは残して置きます。もしまだ墓が出来ていなけれぱ早速に建てなけれぱならぬ。墓を建てる付いて世間には色々の迷信があって、早く建てない方が良いとか言う者もあるが、親のために石塔を供養すると言う事はこの上もない善事、吉事である、それをやっで障りのある訳がない。年忌でなければならぬなどと言いますが、今日年忌と言うのは別に大なる意味はありません。私が前申し四人だけは朝タその戒名を呼ぴあいさつしなけれはならぬ。そうするとその外に年忌と言うものは必要は無いのです。一般に行われている年忌は、仏法とか何とかの定めでぜひと言うことから生まれたことでない。あれを設けたと言うのは、そう常に仏事法要をすることも出来ない事情もあり、その息子、娘などが他に行ったものもありましょう。それらを集めて三年に一度、七年に一度、十三年に一度お互いに呼び会うて霊を慰める。過去の仏と現在の続き合いの上で、親戚の間に親しみを厚うすることから設けられたことであって、借金してまでも何でもかんでも年忌を営まなけれぱならぬと言うものではない。することは結構ですが、捕らわれてただ七年だから借金しても年忌を営まなけれぱ人に外聞が悪いと言うならば、それは大変間違った話です。この四人でもよく常に朝夕にその戒名を呼び挨拶する。それから次にお参りも結構です。またそれぞれの供養も行われるのであります。
 まだお話をすればいくらでもありますが、余り長くなりますから、二、三の実例をあげて終わりと致しますが、要するに墓は石や物でなく、人であり仏である事をくれぐれも御承知置き願いたい。

「例」

 若州小浜の城下に○○寺と言ううのがあります。その墓地はどこにも良く樹木が繁茂して陰気で暗いのに驚きました。その所の公会堂で講演をして、○○寺に木が多くて暗い事、墓に木があると病人が絶えない事を申しておきました所、ニカ月後その寺へ参って見ますと全く木が無くなっておりました。私がただ一回のお話したばかりで町の人々が競争の様にして樹木を切ってしまったと言う事でした。また無縁の石碑をお祀りする事を申しておきました所、次々と約十ヵ寺程無縁塔が出来ました。ただ塔を造るばかりではいけない。お祀りしなければならぬ。お祀りしないのならば建てないのと同じ事である。小浜の町でこんな実話があります。
浄土宗の○○寺と言う寺でも無縁塔を建てる事になって、多くの人が手伝い金も沢山集まりました。しかしこの寺の和尚は無縁塔のありがたい事を心から会得して建てたのではなく、ただ金を集める事を目的としていたのだから、最初から規模を小さくしてなるべく金の掛かからぬよう、そして集まった金が残るようにしました。それがためせっかく無縁塔が出来ても十四、五基しか石碑が並ばない事になりました。その所で和尚は出入りの石屋に命じてその余った石碑を土中に隠匿せしめました。石屋はかねて石碑を埋没する事は悪い事だと聞いていたものでしたから和尚に注意しましたが、六年以上たった石碑は性根(しょうね)が抜けているから構わぬと言い、嫌がる石屋に無理に埋没せしめました。その晩から石屋は毎晩無縁仏にいじめられて一睡もする事が出来ず、一週間も続きましたので石屋はこれでは自分の生命が無くなるからどうかしなけれぱならぬと考えました。しかし今更和尚に相談しても何の効果もないのみならずかえって笑われるだけの事と思い、遂に意を決して夜中ひそかに土を掘り起こして埋めた石碑を取り出しにかかり二つだけ出した時、和尚がこれを知ってその所へ来て何をするかと叱りつけました。石屋も今は隠す事も出来ず、毎晩無縁仏に苫しめられ日々衰弱する事を話し、埋没した石碑を堀り出してお祀りしたいと嘆願しました。しかし和尚はもっての外なりと憤り元のごとく埋めておけと命じましたが、石屋は哀訴(あいそ)してせめて掘り出した二つの石碑だけなりと、お祀りさせてもらいたいと申しましたので、和尚もそれだけは許容してやりました。石屋はその二つの無縁仏を綺麗に洗い土を落としてお祀りをしました。その晩から石屋はもはや無縁仏にいじめられる事なく安眠する事が出来ました。一万和尚の方はその日から右の手が曲がり伸びなくなり、右の口角が上の方へ釣り上がって見苦しい顔になりました。恐らく無縁仏を掘り出してお祀りをしない限り、この病気は治らない事と思います。

「自然石」

 自然石の石碑を建てたために、千年も繁昌した家が急に衰微したお話があります。九州の博多を距てる約四里の田舎に干年前から代々続いて繁昌している○○家があります。この○○家について面自い話がある。比叡山延暦寺の開祖伝教大師が支那へ留学せられその帰航の途博多へ寄港せられました。その時筑紫の国に一つの寺院を建立せんとの発願で、ある夜独鈷(どっこ)の落ちた所が寺院建立の地であるとして、翌日御上陸になり独鈷の行方を探されまして山中にて猟師の四胆郎と言う者にお会いになり、お前はこの辺の者かと御問いになりました。私はこのふもとの村の源四郎と申す者で、昨日猟に出で山中に深入りしたため咋夜は山中の炭小屋にて夜を明かし、ただ今帰宅の途中でありますと答えました。それから咋夜何か変わったものを見なかったかと尋ねられましたので、火の玉のごとき光った物が空中から落ちたのを見受けましたと答えました。その落ちた場所へ案内してくれとの大師の御頼みで源四郎はおおよそこの辺と思う所へ御案内致しましたところ、その所に昨夜投げられました独鈷が落ちていたのを発見せられ、その場所に一宇を建立せられ独鈷寺と称して今日でもその寺は残っております。その夜は大師は源四郎宅へ一泊せられ、源四郎に対し何か不自由の物があらば叶えてやるから申し出よと仰せられましたので、源四郎はこの村には水が乏しくて困りますと答えましたので大師は庭前の地を卜(ぼく)せられこの所を掘れよ、水はその下よりわき出づるとの事で、早速その所を掘らせますと玉のごとき清水がすいすいとしてわき出して来ました。その水は今日に至るまでいかなる干ばつの時でも決して止まった事がなく「岩丼の水」と名付けられ史跡名勝地となって記念碑が立っております。さて伝教大師は源四郎に唐より持ち帰られました「不消の火」をも分与せられましたので、源四郎の家には「岩井の水」と「不消の火」が家宝になっております。その後源四郎の家は家運隆昌、子孫繁栄、四十幾代の今日まで血統の絶える事なく、地方の旧家として我が国でも珍しき千年運続する家系となったのであります。この家がかく引き続いて富み栄え子孫が断絶する事なく経過して来た事は、祖先源四郎以来常に質素を旨とし、陰徳を積む事を心掛け決して名利射幸を迫う事をしない。名主と庄屋とか、今日の村長、村会議員などの名誉職などは絶対にお断りをしていて、しかも村のため地域のための寄付金や慈善事業には、村人の予定額の二倍を提出するを常とし、その寄付行為に自分の名前を出さず、表彰なとを喜ばぬ真の陰徳の行為をなして来たもので、これらの善根功徳は知らず知らず余栄となって家運隆盛、幸福な生活を続け得る事となったのであります。私はこの千年の家系を持つ珍らしき家を明治二十年頃一度訪問した事がありますが、その後お墓が家運の消長、子孫相続の大本となる事を研究調査してから、もう一度その家を訪問して墓相を見たいと考えておりましたが機会が無く今日に至りましたが、今春博多へ旅行したついでにぜひその家を訪問せんと大雨を冒して自動車でその家へ行きました。しかるにその家は以前と変わりはないが家運衰えて凋落悲惨を極めているのに驚きました。五十年前の主人は現代の祖父に当たり、その人の死亡と共にその長子たる○○氏が父の石碑を巨大なる自然石にて造り、山麓に豪華なる墓地を開き、もって父に対する孝養の一端としたものです。するとその時までなんらの異変もなく家運の繁栄を継続し得たものが、いつとはなく衰運に向かい、山地田畑は次第次第に人手に渡り、挽回の策はことごとく失敗に終わって益々損失を加え、遂に不幸の内に死亡するに至ったのであります。私はこの自然石の石碑を見て全部調査し得、現代の相続者のお気の毒なる境遇に同情して帰りました。聞く所によると現代の某氏は史跡名勝たる「岩井の水」の絵葉書などを来訪者に売って生計の資にされているかとかで「不消の火」も何だか以前のとは異なっている様ように思われました。
 自然石の碑が墓相上甚だよろしからぬ事は、一々例を挙げるまでもなく皆さんが墓地に行かれてその所にある自然石の碑とその家とを調査せられましたならば思い半ばにすくるものがあると信じます。しかし墓そのものがいかに吉相でありましても、その人の日々の行為が不浄不徳なるにおいては、幸福なる家庭、一家の繁栄は望まれないのであります。皆々日常功徳を積み善隈を培っている事が肝要であります。     終  り
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