「墓相」入門

松崎整道居士講演 お墓と家運

「吉相墓」入門

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 むしあつい夜であった、森江君が来て、『お墓と家運』のゲラ摺を出し、熱心にお墓の講釈をした。僕はよく理屈はわからないが、君の真剣さに感服した。君はこの書に、一言を付せんことを求めた。
 丁度座間に楽翁公の燈前漫筆があったので、それから一二言をぬき出し、ゲラ摺の端にかきつけて渡した。
 人の父母先祖におろそかに疎なるは、みづから木の根をゆるがして倒すに異ならず。その根かれなぱ、数々の枝葉も徒て枯るるは、皆人の知る所なり。然れば、父母先祖にあつくして、子孫の繁栄をいのるぺきことなり。
 子孫たるもの、先祖に厚くば、先祖の神霊悦ばざるべきや。
 我に親しき先祖の霊に見すてられて、家の幸あるべき理なし。
『お墓と家運』の内容は如何であるかと言えば、つまりはこれですと。乃ち懐にして去る。
 昭和五年六月
   鷲尾順敬
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はしがき

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はしがき

 吾人が現在の人格において、日夜見聞しつつある世界を顕界(げんかい)と称し、その見聞し得ざるも常に霊的威力ありて活動しつつある不可思議の世界を幽界と称す、この顕幽(けんゆう)二界はあたかも昼夜の如く、また表裏の如し、かの表面の活動は裏面の潜勢力により、昼間の動作は夜間の準備に基くと一般にして、終始相互不離の関係にあり、されば、明治大帝は這般(しゃはん)の消息を示し給ひて
  眼に見へぬ神の心に通ふこそ
    ひとのこゝろの誠なりけれ
とのたまはせられしなり、上古はこの幽界の威力を恐怖し畏懼(いく)(おそれはばかること。)して、如在の誠を致せしが、中古仏教の渡来によりていわゆる幽界なるものの真相明瞭となるに及び、いたづらに畏敬(いけい)(崇高なものや偉大な人を、おそれうやまうこと。)するのみならず、進んでこれを慰安し指導せんがため、法味に飢えたる鬼神に対し深遠んる教理を講説して…醍醐の法味に飽かしめ、これによりて各自その威力を倍増して、自在に国家民衆を擁護(ようご)せしめ、また一面にはこの意義を上下に説示し勧説して、神祇の崇敬と共に先人の偉功をたたへ、恩徳の広大無辺なるを示して、追加報恩の善行を勧め、いわゆる祖先崇敬、忠孝一途の大義を説き、爾来千三百有余年、朝野一致、大は治国平天下より、小は修身斉家に至るまで、一にこの主旨により、わが日東の先進文明はこれによりて燦然(さんぜん)たる光華を宇内に発揮し来りしなり。
 然るに近世物理化学の進歩は、唯物的偏見に陥りて必然の結果社会各層を通じて物質崇拝の悪弊を醸し、ひいて神を畏れず聖人の訓えを用いず、百般の事物、一に功利主義に出発せずんば現代を語るに足らずとなすに至る。ここに於いてか労資の反目は階級的闘争となり、至るところ争議、反抗相次いで起りほとんど底止するところを知らず、日東固有の精神文明は挙げて顧みられざるに至らんとす、(あに)嘆くに昌ゆべけんや。
 頃日友人某来り告げて言う、松崎整道居士なる人あり、神霊幽魂の威力を説き、顕幽(けんゆう)二界の関係を闡明(せんめい)すること微を穿ち細を極め、然も一々物的証左を挙示し、聞く者をして所説の的確なるに信服せしめざるなしと、ここに於いて余など同人一日相会して居士を聘して親しくその所説を聴く。
 居士は言う、年来全国的に詳細にして緻密なる調査を遂げしに、その結果の千姿万態なる裏面に因果の理法整然一貫、実に微妙不可思議なるを見、かつ驚きかつ歓び、いよいよ探りていよいよ広く、終に百万基の墓石を調査せりと、講和終りて後、親しく寺の墓前に至り逐一墓を相してその所有者の家運、人事について過去および現在を語るに、墓主および管理人の知悉(ちしつ)(ある物事について、細かい点まで知りつくすこと。)せる事実と寸毫(すんごう)(きわめてわずかなこと。ほんの少し。)も違ふことなかりき、
嗚呼これ実に幽界の鬼神が語る雄弁なる説明にあらずして何ぞや、いわんや居士はもとより仏教信者なるも、その説くところは経典に基く知識にあらず、ただこれ多年の調査によりて得たる実験談に外ならざるをや、真にこれ顕幽(けんゆう)二界交通の新消息なりと言うを得べく、またもって滔々たる現代物質崇拝者流をして翻然悔悟(ほんぜんかいご)せしむる絶好の資料たるにあらずや。
 居士は大震災以来家政を子息に任して顧みず、老体をかりて全力を無縁墓の供養に捧げ、常に言う我が無病健全なるは一にその余徳なりと、しかも居士居常淡々明利を避け、自己の言行の世に知られるを欲せず、従って今回の講和筆記も発表せるをいやがり堅く刊行を拒まれしも、余など同人間に分かつべんぎ上、単に数百部を印刷すとの主旨により、ようやくその快諾を得たるをもってこれが鉛槧(えんざん)に付し発行の事をあげて森江書店の主人に至嘱(ししょく)すと(しか)言う。
 昭和五年六月七日 各宗聯合大井佛教會本部にて
               遠賀亮中 しるす
   鷲尾順敬
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一 墓とは何ぞや

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一 墓とは何ぞや

お墓と家運

  松崎整道居士講演
 今回。はからずしもご縁が出来まして、かく多数の諸君にお目にかかり、多年私が研究いたしました墓と家運の開係、ならびに墓相に付いて一席お話を申し上げる機会を得ました事を仕合せとぞんじます。

一 墓とは何ぞや

墓の意義

 さて墓とは何かと申しますと、これを学間的に説明をいたしますと、日本語のいわゆるハテカまたはハテル、すなわち終焉(しゅうえん)の場所の意でありまして、漢字の墓もまた終焉の土地の意味で、人の屍を処置したところの意味であります。その文字を見ましても墓と言う字は、土の上に人が横たわり、それに日が当たるをもって、これに草を冠らさせてあります。
 およそこの世界において人の造ったもので、最も規模の大にしてかつ荘厳なるものは、何であるかと言えばお墓であります。また最も規模の小にしてかつ簡単なるものは、何であるかと言えばこれもまた、お墓であるのであります。
 ためしに今その大なる例二三に付き、本邦建築学の泰斗、伊藤博士の著書中より引用いたしますれば、

世界的の墓地の数々

 わが国の仁徳天皇の百舌鳥耳原中陵(もずのみみはらのなかのみささぎ)は、東西三百間、南北4百間で、総面積は十余万坪に達し、人口の造営物でこれに勝る大規模のものは、世界にないと言う事であります。また印度のアーグラ市にある、タージ・マハールはムガル帝国のシャー・ジャハーン帝の愛妃の墓であるが、その秀麗壮観なる事は有名なもので、その工費が今日の物価をもってすれば少なくとも二億円に達し、これが世界第一高価なる建築物であると言う。またエジプトのビラミッドは、約五千年前にクフ王が築造した墓で、その底面が各七百七十尺、高さが四百八十尺で、これに要した石材は約七千万立方尺で、その重量は十四億貫目で、すなわちこれが世界第一の重量を有する建築物であります。中国北京の北にある明の長陵は永楽帝の墓であるが、その参道の入口なる牌楼から陵まで実に十五支那里と称せられ、その間に大紅門・碑亭・華表・石獣・石人・隆恩門・隆恩殿・明褸などが立ち並んだ有り様は、実に世界第一の大袈裟なる配置であると言う。日本でも徳川家康の墓、すなわち日光東照官の美観は日本第一であるのみならず、今や世界の驚異をもって称せられるのであります。
 さらに小なるものの例を挙げれば、小供が死くなったが棺を買う資力がない、わずかにミカンの空箱を得て来てこれに納めて葬った。この位規模の小さくして簡単なるものはありませぬ。むしろ真にあっ気ないない位であります。
 されば世界の建築物中で最小なるものは墓であと同時に、最大なるものもまた墓であります。 一国の内で最とも荘厳なる建築物は、墓であると同時に、最とも簡簡単なるものも、また墓であるのであります。
 観じ去り観じ来りますれば、実にしんしんたる興味のつきざるを思うと同時に、また一種の神秘的意義を感ぜざるを得ないのであります。
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二 昔の墓と今の墓

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二 昔の墓と今の墓

 昔の墓を説くに先立ちまして、墓に関係のある事となる、日本における寺の起源に付いて少しばかりお話をいたしておきます。

寺院の起源

 今日では寺はあたかもお墓のために、建てられているように見えますが、昔はそうではなかったのです。その一家一族の現世の幸福と未来の安楽を、祈るために寺を建てて仏菩薩を祭ったのでありました。れがすなわち氏寺であります。氏神と言う事は今もなを申すのみならず、各市町村内にそれぞれ祭られてありまして、皆さまご承知の事ですが、この氏寺についてはあまり無関心のようでありますが、たとえば奈良の東大寺は朝廷の氏寺でありまして、同じく奈良の興福寺は藤原家の氏寺として、有名なのものでります。

浄土教と墓所

 浄土教が盛んになって来まして、追福のために墓所に寺を建てる事がお起こって来まして、あの藤原家においては京都市外の木幡の墓地に、浄妙寺を建てらたのがそれであります。

禅宗の塔頭(たっちゅう)

 禅宗が伝わって以来、その寺の中に墓を置きまして、塔頭を設けるに至りました。塔頭とは墓番の意であります。徳川幕府にいたりまして宗門改め、すなわちキリシタン宗禁制を定めまして以来、貴賤みな檀那寺と言うものが一定するに至りまして、ついに寺は墓番を専業とするが如きが、一般の風となりました。幕府時代はその宗門改めの結果、嫁に行くにも婿に行くにも、また奉公するにも旅行するにも、檀那寺の受判のある書類がなくてはならなかったのであります。

石碑、石塔

 それから初めにも申しました通り、単に墓と言えば人の屍を埋葬したところの事で、その上の建築物の事ではないが、今一般に墓と言えば死人を埋葬したところも、またその上の建物すなわち墓標・石碑・石塔、ことごとく墓と申して通りますが、私がこれよりお話も申す墓と言う言葉は極めて狭義の方で、すなわち石碑・石塔に限ったものとご承知を願っておきます。  我国において一般国民が、その墓の外部的設備として石碑・石塔を建てて、これに法号または戒名を付するに至ったのは、徳川幕府来すなわち檀那寺関係の起った以後の事に属し、古くても三百年に達するものはまれにして、多くは貞享・元禄以後の二百四五十年に達するものが古い方に属し、それ以前の正保・慶安・承應・明暦・万治・寛文・延宝などの年号あるものは、絶無ではないがほとんど希少の方であります。

行基菩薩の墓

 さらに昔に遡ると少し文献を調べれば、大和国生駒郡生駒村大字有里の行基菩薩の墓に、多宝塔を建てられた事の記録を見るが、それは今より千百八十二年(昭和五年当時)の昔、平城右京の菅原寺に寂(死去)せられた、同菩薩の墓誌銘によりて知る事が出来たのです。

日本最古の墓

  さらに今日、形の存在するもので最も古いものは、大和国高市郡高市村大字稲淵の龍福寺にある、石造の層塔(そうとう)一基である。これはその初層の周囲に昔阿育王…の銘があって、表面腐食はなはだしく到底全文を知る事が出来ないが、末に天平寶字三年および従二位などの文字があって、これを金石文考證や日本図経などに従うと、従二位の下に竹野王とあったらしい。それならばこれは竹野王の墓標として建てられたものであろう。実に我が国における銘のある石塔中、最古のものとすべきであります。天平寶字三年は今を去る千百七十二年前(昭和五年当時)の昔であります。

石造の卒塔婆(そとうば)、五輪塔、宝篋印塔(ほうきょういんとう)

 それから平安朝に移っては、多宝塔や層塔(そうとう)の外に石造の卒塔婆(そとうば)がおこりました。これは初めには供養のために建てたものだが、後には石塔と同じく墓のしるしとなりました。それに次いで草堂または小堂を建てるの風がおこりまして、これが後世に霊廟の起源をなしたものであります。またこの平安時代には、あの石造の五輪塔や宝篋印塔(ほうきょういんとう)などがおこりまして、あまねく世に行われるにいたりました。

堂塔の墓所

 以上はおおむね皇室において行われた所の、ご陵墓におけるありさまでありますが、堂塔をもって墓所とするの傾向は、やがて貴族の間にも採用されるに至りました。そして鎌倉時代に至ると、武家の間にも墳墓堂を見るに至ったのであります。彼の奥州平泉における中尊寺の金色堂下には藤原清衡・基衡・秀衡三代の遺骸を葬られた事は、世に有名な事であります。

板碑

 それから、この鎌倉時代から板碑と称し、緑青岩すなわち青石または秩父石とも言う、薄くて硬い自然石の平石をもって造られたものが、行はれるに至った。これは本来卒塔婆(そとうば)と同意義のもので、もっぱら供養のために用いられたものであります。今時好事家や考古学者の間に、非常に珍重されるるものでありますが、これは足利時代に入って、最ぎも全盛を極めるに至ったものであります。その頃の板碑には、

逆修の意義

 往々逆修の文字あるのを見ます。生前に碑を建てて未来の冥福を修する事を逆修と言います。すなわち応永・応仁の戦乱の時など、出陣に際しこれを建てたが、終に戦死して、これがその墓碑となっつたものも少なくないのであります。
 供養のために、先人が建てられたものを利用して、後人がその背面に法号または戒名などを刻入し、これを墓碑とした例もまた少なくないのであります。
 そのように、我が国の昔の石碑・石塔の種類は多様にして、多宝塔・層塔(そうとう)・五輪塔・石造卒塔婆(そとうば)・板碑そのほか、あるいは五重または七重の層塔(そうとう)、あるいは十三層塔(そうとう)、または宝篋印塔(ほうきょういんとう)などの様に、色々のものがありますが、要するに徳川時代に至るまでは、以上の様な種類のもので、その大体が 皇室・貴族・武家その他には、名ある法師とか、または門閥のものに限られて 建てられたものであります。

一般民衆墓の起源

 徳川時代となっつて、一般国民が普通に墓碑を建てるようになった、この形のものを上げますと以上古来各種のものを、使用されたものも少なくないが、この時代の古いところでは石造の祠形・仏像、例えば阿弥陀如来とか観音とか地蔵とかの像。それから卒塔婆(そとうば)形の石碑、屋形すなわち石塔の頭に佛堂の屋根御拝の形ちを頂いたもの、それにまた根府川石や普通の自然石などを用いたもの、その他今日一般に用いられる切石を以て造られたる各種のものでありますが、この約三百年間のものを、形ちによって時代を表すと、おおむね五六期に分けられるのであります。
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三 墓と家運の盛衰

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三 墓と家運の盛衰

子孫の繁栄

 墓。すなわち石碑・石塔がそれぞれの家運と、どの様な関係があるだろうか。これは、すこぶる興味のある問題であると共に、また我が日本国家の一大問題であると言う事も出来ます。何となれば、我が国の様に上に万世一系の皇室を頂く国民として、我々の家もおそれ多いが、これにあやかりまして子孫が長く続いて、かつ栄えると言う事は、わが国民の大なる理想でなければならない事と信じます。またこれは、我々の一大願望であると信じます。

墓は相続を表示す

 私が多年研究した結論から申しますと、お墓はその家の相続を表すのであると言う事を申しておきます。またお墓はその家の根であると言う事を申しておきます。
 なぜお墓はその家の相続を表すわすかと言えば、三百年このかた建てられた民間各家の墓を、数十万これを調査・研究を致しましたが、代々親の墓は子が建て、親の墓は子が立て、子々孫々代々これを順々に建て来たりし家は、子孫よく続いてかつ栄えておりますが、これに反してる家は、あるいはつぶれ、あるいは枯れて、終にことごとく絶えています。

生存中に自ら墓を建てた人の家運

 また世の中には大変に手回しが良く、自分の墓を自分で建てるものがご座います。しかしその子は病人となって、世の用をなさぬ廃人となるか、または放蕩を始めるとか、不良の徒となるとか、とにかくその後は満足でなく、やがて絶える様な事になります。

他国に生活する人の故郷の墓地

 また家を相続する人が他の土地に出でて生活するものが、少なくありませんが。その家の墓所を調ぺて見ますと、その墓所にはもはや一基の石塔も、立つ余地がないのが不思議です。相続人が他郷に生活している事情は種々ありまして、ある者は大学で医学を勉強して医学士となり。または医学博士となったが、郷里の田舎に帰っては、折角勉強したかいがないから都会で病院に勤めるとか、学校に教鞭を執るとか、またあるいは自か開業するとか。その他あるいは、法学・文学・理学・工学または商学とか、種々さまざまなる学問を学んだものが、田舎の町村などに戻ったところで始まらないから、東京なりまたはその他の都会なりで、弁護士となるとか、裁判官となるとか、その外、官公吏となるとか、あるいはまた銀行会社などに勤めるとか、または白己独立の事業を経営するとか、それぞれ学校出身者はもちろん。その外種々なる技藝職業を覚えたものも、同じく田舎に帰っても商売にならぬので、広い都会で働らくとか稼ぐとか、種々さまざまでありますが、要するにそれは、現世の事情に過ぎないので、事の因縁は、その家々の墓所を見れば分りますが、前に述る通り、やはり一基の石碑を建てる余地が、ありませんのであります。

建てる余地なき墓地はその家枯る

 お墓が一杯になって余地がなくなると、段々その家が枯て来てついに死に絶えて、つぶれる様になるか、またはその相続人が他に出て仕舞う様になります。
 人の家は、あたかも盆栽の様なもので、我々は縁日の夜店や植木屋などで、花が良いとか樹ぶりが面白いとか言って、これを買って帰り、水ぐらいは絶えずやりますが、もさよりその培養の法を知りませんから、しばらくするとほとんど枯らしてしまいます。それを盆栽に趣味をもつ人や、植木屋などになりますと、枯らすどころか、もてばもつほど良くしてまいります。それは、その樹や草の種類によって、毎年とか隔年とかに、これを鉢より抜き出して、その古根を切とり土を入れ替えて、新らしい根の出る様にして、時々必要な肥料を施しますから、段々良くなるのであります。

墓石を整理しなければその家滅亡す

 人の家もこれと同じく、墓地一杯に石塔の数が増えたらこれを整理しませんと、前に言った様に、絶えるとか、つぶれるとか、または相続人が家出してしまう様になります。その実例を上げますと、すこぶる沢山の資料を有しますが、今一つ二つを上げますと。

墓地を整理して家出人帰国す 実例の一

 ある家の相続人が、青年のころ外国に遊学いたしまして、予定の年限はとうに過ぎましたが戻って来ません、それが五年過ぎ、十年過ぎ、十五年過ぎ、はては二十年にもなりましたが、なかなか帰る様な様子もありません。両親も追々と老境におよび初めはこの両親から、友達とかからこれも幾度(いくたび)か数知れずほど、帰国をせまりましたが、矢張り帰ってまいりません。
 そのうちにふとした事から、その家の菩提所の寺院において、墓地整理の事が行われるにいたりまして、石塔で一杯になっていたその家の墓所も、整理される事となりました。その結果はその家の墓地も大いに余地が出てまいりました。すると前にも申す通り幾年の間、幾十度帰国を迫りましても戻らなかったものが、突然と帰ってまいりました。

相続人は先祖の現われである

 家を相続する息子は、すなわちその家の先祖の現われ来たものでありまして、その先祖に当たる相続人が、死して行くぺき墓地が一杯では、行くところがありません。これがなかなか帰って来なかった因縁であります。それが墓地の整理が行われ、余地が出来たものですから、偶然にも戻って来る様になっつたのであります。

実例の二

 またある家の相続人も中国の方に行って働いていたのですが、これまた今年は帰る来年は戻ると申しながら、なかなか帰って来ません。その家はその父親の代に、中国の方からこの東京に移ったのですが、墓所は遠き郷里にありまして、ほとんど一杯になっておりました。父親は先年没しましたが、まだこの東京には墓所さえも持たなかったのを、一人残って留守する母親が、この東京において新たに広々とした墓地を購入しまして、その父親のお石塔を建てました。するとこれも不思議と何年ぶりかで、帰って参りました。

実例の三

 またある家では、一人子の相続人が、少少放蕩をはじめまして、家を飛出し四五年も戻ってまいりません。その両親は掛け替えのない一人息子のとごなれば、一と通りの心配ではありません。しかるにこの家は、その父親が分家されたので、まだ墓所を所有しません。ところでふとご縁があっつてその父親が、私のところへ来られた時に、その息子の家出をなげかれて、しきりに言いますので、これに対して、お墓の有無を尋ねましたところ、その人が言うに、「私は分家したものでありますから、まだ墓はありません。が、せがれの家出にはことごとく心配しておりますが、まだ墓の方の心配はいりません」と大いに不満気の様でありましたから、それはごもっともでありますが、およそ人は、家があっても墓所を持たねば、その家は永続しないで滅び。また墓があっても、その建方が悪ければ、その家もまた枯れるにいたると、言う理由を詳しく説明したところ、左様なものか知れませんが、私は墓所を求めましても第一に、お祀りする仏がありませんと言う。しかし、あなたは分家した初代の人ゆえ、まだ仏はありますまいが、父母がおりましょう。祖父母がおりましょう。またその先祖もおるでしょう。墓所をもとめて、それをお祀りするのであると、さらに説明いたしますと。またその人が申されるに「それは父母も祖父母も、そのまあ先祖もありますが、それは皆、本家で兄が祀っております」と。誠に怪訝(けげん)そうな顔で答えられましたから、私はまたこれに対して、それを本家で祀ってなくては大変です。しかし子として親および先祖を祀ると言う事は、何も本家とか兄とかに限ったものではなく、子供が沢山あれば、その沢山の子供が各々(おのおの)ことごとく、その親および先祖を祀り、供養をせねばなりません。子として親およびその祀先を、たとえ忘れはせぬとしても、これを祀って供養をせねば、その人の後はありません。

本家分家は各先祖の祭祀の形式を(こと)にす

 唯、本家と分家とは、その祀り方が異なるのであります。本家はその家を相続するのであるから、石塔を建てて祀れるが、分家は相続でないから石塔を建てられない。そこで塔婆をもってこれをお祀りするのであります。あなたは息子を、単に自分だけのものの様に、お考えですが、相続となる息子は、すなわち将来あなたの家の、根となる一人でありますから、その根の培養さるる、墓所がなくては育ちません。居られません。されば家出の事情は、たとえ道楽がもとであれ何であれ、その因縁は墓所が無いからの事なれば、まず墓所をもとめて、そこに木塔婆を建てて、ご先祖および両親を祀り供養なされと申しましたら。初めて納得されまして、間もなく墓地をもとめられ、先祖祀りをされました。するとこれまた不思議にも、四五年間も寄り付かなかった、その息子が親戚のところまで戻ってまいり、長く家を空け、両親初め親戚に心配かけた事をことごとく悔悟(かいご)され、両親に詫び言のあつかいを申し出ました。両親の方ではそれを待ちかねていたのですから、何の支障も面倒も無く納まって家に帰られ、今ではすこぶる堅人となり。両親とも親しみて、家内和合し最も平和に暮らしております。
 かような訳で、お墓は相続のものであり。またその家の根であると言う事も、既知(きち)されるのであります。

分家を出す因縁

 ここに分家の話が出ましたから、この分家の事に付き、私が研究したところによりますと、面白い事実が現われましたから、それをお話し致します。
 分家を出す事情の根本とも言う事は、すなわち昔し血統を尊ぶところの思想から胚胎(はいたい)いたしている事は、どなたでもご承知の事ですが。ここに民間における、普通一般の家庭の事情では、例えば子供が二人しかない、一人が相続し、あとの一人を世間並みに、嫁なり婿なりに出して仕舞うのは誠に寂しいから、女なら婿を迎え、男なら嫁を娶って分家さすとか、また沢山の子供があればあるで、これを相続人一人残して外は、みな出して仕舞ふのは、同じくさびしいから、一人二人は、嫁なり婿なり取って、分家をすると言うのが、多い様であります。事情はいづれであっても、分家を出すと言う因縁のもとは、その家には三代か四代の間において、その家へ婿なり嫁なりに来た人の実家が、必ず絶えているのであります。それがなければ、事情の如何を問わず、分家と言うものは、出てまいらんのが不思議です。分家と言うものに付き、かなり沢山の資料を集め、これを調べましたが、この数を外れません。

分家の永続せざる理由

 然かし出す方も出る方も、さような因縁を知りませんから、単に財産でばかり分家して、多くは前の例と同じく墓をもって分家しませんから、その家には根が無いので、長く続くのが少ないようであります。若しそれ分家の長く続いているものには、本家の方が滅れるか、または絶てをります。
 中には嫁に来た母の里が、絶ているとか。養子に来た父の実家が、滅れているからとか。で子供をもってそれらの家を相続させるものもあります。これらは皆なその絶た家の仏を、もっている訳ですが、あまりよくその祀りを、せぬ方が多いようで、結果はその家の永続が出来ない方が、多い様であります。

一代の高名者、成功者の永続せざる原因

 それから、よく一代に名を成し、産を造るものがありますが。その名その産を、よく後世子孫にまで伝えるものは、誠に曉の星の如く、稀なようであります。名と産、すなわち名誉と財産、どうもこれは追々と、段々に、代々累代で、築きあげたものは手堅いが、一代或は一時に出来たのは、誠に槿花一朝(きんかいっちょう)(人の世の栄華のはかないことのたとえ。つかのまの盛り。むくげの花が朝咲いて、夕暮れには散ることからいう。)の栄えで、長持ちが致しません。何故、永続せぬのでしょうか。これも矢張り根の無いためで、すなわち完全なお墓をもっつておらないからだと言う事を、断言してはばからないのであります。これに付いて少しばかりその例を述て見ましょう。

維新の元勲岩倉公

 明治の元勲、岩倉公の後は如何でしょうか。公は位人臣を極められ、生きては従一位の大勲位、左大臣たり。死しては大政大臣を贈られる。廃朝三日(朝廷の公務を3日間休み、功臣の死を悼むこと)、国費を以って葬られ、葬儀はなはだ盛大を極められましたそうです。公は性剛毅にして淡泊、また倹を好んで家憲を制し、奢侈(しゃし)を子孫に戒しめられました。その家憲成っつて一族これに調印せるは、公が薨去(こうきょ)の前五日であったそうです。然るに、公去って未だ幾ばくもなく、二代の如きは、公の家範に反し豪奢(ごうしゃ)一代になり、その結果、破産没落の悲運を見たではありませんか。あまりに同家の運命は、極端から極端を示して、いるではありませんか。
 かくの如きゆえんのものは、そもそも那邊より将来するものなるか。公の成功は元より不出世の駿傑(しゅんけつ)であって、もって明治の大業を成就するに、よって力のありし一人であるから、その盛名の赫々/rb>(かくかく)たるは、当然であるのは勿論ですが、ただ公の英俊と、かつまた、その時運に会したばかりでは、かかる成功は覚束(おぼつか)ないであります。

祖先代々の陰徳

 これは遠く先祖、すなわち岩倉家における、多年集積の功徳と、その生家なる、堀川前中納言家に於おいて、施されたる陰徳のもたらしたる果報であると信じて疑わないのであります。
 しかるに公は生存中、国事の多忙にかられまして、それら先祖に対する供養、または報恩の道を営む事において、あるいは欠けたる事はないでせうか。公のお墓は、品川海安寺における、堂後の高丘に、最も立派に築かれてあるが。これを墓相上から観察すれば、盛運の極まったもので、子孫は誠にお氣の毒と、言はざるを得ないのであります。公はすなわち過去租先の施された、陰徳はもちろん、長く子孫の受けるぺき果報までも、遺い尽されたものと、言うの外ないのであります。

明治維新の三傑

 次て木戸・大久保・西郷ら、いづれも明治維新の元勲にして、世に維新の三傑と称せられ、威名赫々(かくかく)たるものでありますが、その終わりは如何と言うに、木戸公の如きは、明治十年四十四歳の短命をもって、病死せられてしかも家には世子(せいし)なし。ゆえに家弟正二郎氏これを襲ふたるもまた子なく、同藩士来原家の男、孝正氏を迎へ養嗣子となし、侯爵家を襲はしむるにいたりました。
 大久保公はまた、参議兼内務卿として廟堂に立ち。威名一世に輝きたるも、同十一年五月十四日、参朝の途次、石川県人島田一郎以下六名のために、赤坂紀尾井坂において、刺されて薨じ(こうじ)(身分の高い人が死ぬ。)ました。享年四十七歳でありました。その墓は、青山共葬墓地内にあります。
 また西郷参議兼陸軍大将は、元帥にして威名前者をしのぐのありさまでありましたが、意廟堂にかなわずして一朝冠を掛け、郷里鹿見島に退隠いたしますや、明治十年、その常に教へ養ふごころの、若殿原の犠牲となって、不幸にも朝敵の汚名の下に、薩摩城山の露と化するに至りました。

伊藤公、山県公、大隈公

 さらにその後の三傑、すなわち伊藤・山県・大隈など。三者の運命は如何と言うに、前の三傑に似たり寄ったりのありさまにて、後の三傑の筆頭ともい言はるる伊藤公の如きは、格別なる家柄に生れたものでもないが、時運に会し、人臣として最高位に昇られ、国家の元老として重望をになわれたるが露国訪問の途次ハルピンにおいて、鮮人の凶手にたおれ、異国の露と散りましたのは、誠に惜き事でありましたが、その後はまた子なくして養子の相続であります。その墓は大井の谷垂にあります。
 山県公の如きは、その災殃(さいおう)(わざわい。災難。)の難なかりしと言えども、その家を継ぐがれたる者は、同じく養子であります。大隈公のまたしかり、養子の相続で御座います。共にお墓は、小石川音羽の護国寺にあります。
 先代いかに盛名を極められたるも、その家を相続すべき子孫無くして、他人の子をもって家名を襲はしむるが如きは、最も不幸のいたりにして、かくの如きは一代に於いて、あまりに顕達(けんたつ)(立身出世すること。栄達。)ほしいままにせられたるの結果、寿運乏しく、すなわち子孫を欠くに至りたるものと、言うの外無き次第であります。

一門こぞって富かつ栄えたる某公爵家の末路

 いかなる名家でも、また名士でも、名も馳せ富を得、その上子宝に富むと言う。この三拍子揃う者は誠に稀なる事にして、名を得れば富を得ず、富を得れば子宝を欠くと言うが世間普通の状態なるに、ひとり某公爵家の如き、同じく明治功臣の一人なるが、官位も高く名も(あら)われ。その子孫も多くして長男の某は、当時名高き某大銀行の頭取となり、次男の方はまた、某大造船所の社長にて、その外の兄弟、それぞれ皆各方面に頭をあげ、一門こぞって富かつ栄え、明治功臣中稀に見る幸福の家にして、前に述べたる諸公と異なり、この公爵家は過去に於いて、その先祖が、よほど結構なる福種を蒔かれたる事と思われましたに、(いずく)んぞ知らん、一昨年に於ける、我国財界希有の恐慌にさいし、その大銀行も、大造船所も、またその他の事業も、終に大破綻を生じ、一門ことごとく失脚いたされましたのは、誠にお気の毒の至りですが、その大銀の預金者や、株主などは、そのため非常に迷惑をしたそうですから、それはまた止むえない結果でありましょう。

紀の国屋文左衛門

 その外富をもって一代で名を成したる者も、なかなか少なくは御座いません。かの徳川幕府全盛の時代に於ける、紀の国屋文左衛門または奈良茂の如き、講談などにて皆様ご承知の通り、一代に(おこ)して一代でつぶれているのはもちろん、明治大正の富豪中にも、それが少なくはありません。

成金の実例

 日露戦争の頃より出て来た言葉ですが、成金と言う言葉が今もなお使われまして、ことにかの世界戦争の中途より、我が国には種々なる成金が排出いたしまして、船成金・鉄成金・株成金、その他何々成金と当時数えきれない程、種々なる成金が現われましたが、その成金なる言葉の初めて慣用されたのは、今もなおご承知の人が沢山御座いましょうが、それは何久と申す一青年が、うたわれた初めであります。世界戦争の時とは大分桁が違いますが、その時には珍しき成功でした。彼は埼玉県某所の何某とか呼ばれた、地方ではかなり大きい酒造家の次男坊でとか、兄の何右衛門が、酒蔵のかたわら経営しておりました銀行の、東京支店に一店員として、働いておりました折柄(おりがら)(ちょうどその時。折しも。)日露戦争が勃発致しました。その時彼は株式に手を出して、大当りに当たりましたのみならず、鐘紡株とかの買占めには、ほとんど敵無くして、一時大成功を遂げました。世界戦争の時や今日の財界から見ますれば、大した事ではありますまいが、明治三十七、八年の当時、三十歳未満の一青年が約一千万円に近き富を勝ち得ましたので、世間では成金の旗頭と褒称(ほうしょう)(ほめたたえること。称賛。)しましたが、間もなく彼は惨敗して元の木阿弥、ただの歩となって今ではただの笑話に残るのみですが。これはお墓、すなわち根を持たずして咲かせた花と一般、枯れずにいる訳がないので、その失脚はむしろ当然と、言うべきもので御座います。

財産はただ美麗荘厳(びれいそうごん)の墓とのみ化す(実例)

 また、根。すなわちお墓を持っておっても、その建方が悪いので、その家の枯れた実例を申うせば、下野の国のある町に横尾某と言う地方きっての田舎大尽(だいじん)(財産を多く持っている人。 財産家。大金持ち。)がおりました。その家では山の木を年々五万円づつ切って売っても、五十年経たねば元の場所には来ぬと言う程のもので、山林以外の富いくばくありましたか知れませんが、その家の墓は住居の後ろの城山と称する山上にありまして、子供一人亡くなった者の墓でも、何百何千円を投ずるような状態で、墓所に金を掛けたこと何ほどか計り知られぬような訳で、その美麗荘観いちじるしいものでありました。田舎大尽のくせに(めと)る嫁は華族でなければもらわない。また出すのも華族にあらざれば相手にしないと言う豪奢(ごうしゃ)ぶりで、年分の大部分東京に住し、その市中に放資してあるものもかなり沢山あったそうですが、その主人が歿してもはや十余年になりますが、息子が相続すると間もなく没落するに至りました。これらはその家の家運が、美麗荘観なる墓と化してしまったのであります。

某富豪の末路(実例)

 また一昨年の恐慌の時、第一に没落した某個人銀行があります。この家は江戸中古よりの舊家(きうか)(古くから続いている由緒ある家。)で、日本橋に於て初め海産物などを扱われ。後ち、国立銀行がしきりに設立さられた時代に、第二十何番かの国立銀行を設立され、その後国立銀行に廃される時に、自家の姓を冠したる銀行とあらたまり、市中の信用もあつく、個人銀行としてかなり優勢のものであったが、あの恐慌で内状を暴露し、ついに大破綻を招き一家の没落はもちろん、その預金者などには非常の迷惑をかけ、なかには驚愕(きょうがく)のあまり死亡した者などもあるとの、噂さえあった様なる次第でありました。
 この家の墓は浅草の某寺にあって、その先代は東京市より貴族院議員に選ばれたような名誉な人で、後ち功に依って勲四等かに叙せられた。先年亡くなりましたから、その時建てたものであろう、あるいはこの墓碑を建てるについて、先祖以来幾代かの墓を整理したものであろうか、あまり大きくないものに、沢山な法名を切り付けた、一基の石碑がその墓所の片隅に建てられ、その中央よりの所に一段高く立派な石碑に、その勲四等何々と現わしたものがあって、その他二基ばかりそれに次いで建ててあります。
 その片隅に寄せられたる、ご先祖このかた積み来った功徳の余慶(よけい)によって、東京でも屈指の富豪となり名誉も得るに至ったものなるのに、ご先祖は片隅に致ししかもあたかも石の過去帳の如く、一基の石碑に沢山なる法名を並べたる上に加え、勲四等の先代をその場所の主体の如くに建立せるは、先祖を無視した不孝の仕方で、家運ここにあらたまるは自然の勢いで、その家の現在および将来の幸福は、ことごとくその勲位を記したる石碑となってあらわれ、もってその石碑は家滅びて墓ありと言う事を、示されたるに過ぎません。

争い絶えず火難の墓(実例)

 大分長くなりましたが、今一つの例を上げますが、この東京に於て三井・三菱に次ぐ富豪がおります。一代の成功者ですが不幸にして先年その主人は、相州にある別邸内に於いて、ある者に飛んだ災難で刺殺されました。その家の墓を、数年前に見た事がありましたが、その時の感じを同行の者に語った事がありましたが、それはこの家には争いが絶えないまた一族に火の難を免れないと、申した事がありましたが、果たせるかな、後年それを事実に見聞するに至りました。
 その墓も、また浅草の某寺でしたが、その主人の性格の通り彼の富豪に不似合なほど、質素のものでありました。震災後何れにか移るように聞きましたから、今はもう無いか知れませんが、それば、他の各檀家の墓に並らんで、間口が八九尺、奥行三尺位で、切石を以て高さ四尺位積累ね、その上に三基の石塔が建っておりました。中央の石塔には何家の墓とその家の姓を冠してあり。左右のものには、同姓の文字の下に分家の墓と累家の墓となっつておりました。これは同家一族、何家かの表現でありますが、その感じは前に述る通り、火と争いでありました。
 その後ち新聞などの、伝えるところを見ますと、その家では最初娘さんに養子を迎え、それが戸主と成って同家一門事業の中心人物でありましたが、後に追々と実の息子達が成人してまいり、その間いかなる事情あったか、終にその戸主なる養子夫婦を同家より離籍する様な事になりました。また一族中の一家は、彼の十二年の大震火災に一家全滅の災にかかられました。また他の一家の主人はあまり金を貸過ぎたとかの事により、一門より除かるに至りました。当時何れも世間の嘱目(しょくもく)(今後どうなるか、関心や期待をもって見守ること。)するところでありましたが、これまた、その墓の建方が悪いのでありました。この家にのみ限っつた訳ではない。同一の墓地区割内に、本家と分家、あるいは親子兄弟でも、またあるいわ他姓のものでも、交わって建てるのはよくないので、若しそれが二軒の時は盛衰交々至り、三軒の時は火と争いの難を免がれません。  何れに致しても、よき根すなわち、よき墓を持っておりませんと、家が平和に長く栄えて続かないのであります。
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四 善い墓、悪い墓

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四 善い墓、悪い墓

広告的虚栄の墓

 然るに近来。都会はもちろん地方村落に至るまで、めいめい家々の墓を建てる。状況をみまするに昔の様に亡者(もうじゃ)あるごとにこれを建てる風習はすたりまして、何々家先祖代々の墓とか、何家累代の墓とか、何家の墓とか記したもの一基を建てて、これで以後代々の用となすの風習が流行するに至りました。しかもその形ちの如きも、倍々大きなものを好まれまして、中には見上る様なものを造り、これに何千円、または何万という巨額の金を費し、これ見よと言わんばかりの墓が、到るところに多く建でらる様になりました。誠になげかわしく思う事の一つであります。
 何故なれば、これら近来の人々は、墓なるものを何と心得ているのでしょうか。あるいはこれを自家の誇り、また或は、広告でもあるが如く、思うのでしょうか。
 元来人は、死して後の亡骸は、もはや価値のないものでありまして、落命の後ちは、元の土にかへるのでありますから、これを野に捨て、水に投じるも可なりだが、それでは人としての礼にかなわぬから、これを火葬にするとか、または土葬にするとか、とにかく、生てる人に対する礼をもってこれを扱う事が最も大切であります。

目に見えぬ霊魂不滅の実現

 それと同時に、残るところの霊魂、すなわち目には見えないが、この不滅の霊魂を、より以上大切にお祀りする事が、最も肝心な事であります。この霊魂をよく(しず)まる様に、またよく休まる様に、お供養し、お祀りしないと、亡者は成仏出来ない事になります。
 前にも申しましたが、生存中に自分の墓を自分で建てると、その子は廃人となって、終にその家もまた(すた)ると申しましたが、試みに自分の墓を自分で建てた人があったら、その後を調べられたら、思い当たるで御座いましょう。

一基の墓標

 されば自分の墓を自分で建ててすらかくの如くであります。しかるに近来の如く先祖代々あるいは累代、または何家の墓という、一本の墓を建てて、それで将来子孫の代まで済まそうとするのは、もはや子孫のいらない事になるので、その家はそれが終わりとなるのであるから、大いに研究せねばなりません。
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